北方謙三といえば、『マセラッティに乗りたいがために免許を取った』という逸話を持ち、今日まで十数台のMaseratiを乗り継ぐ「Maseratista」として有名である。今年のお正月にも彼がかつて所有していたMaserati Shamal(↓)とツーリング
(●)した想い出が蘇る。

作家・北方謙三は太い万年筆で原稿を書く。その筆は一度書き始めると留まることなく、かつ訂正することもないという。彼のあたまの中ですべての構成と文章は、手を動かす時にはもう完成しているのである。
北方謙三というとハードボイルド小説のイメージが付きまとうが,1990年あたりからは中国歴史の大作を多く手がけるようになる。『破軍の星』(柴田錬三郎賞受賞)、『楊家将』(吉川英治賞受賞)、『水滸伝』(司馬遼太郎賞受賞)『三国誌』、そして『史記』。
『史記」はご存知の通り原作は司馬遷。漢時代の前期(紀元前206年~8年)、「武帝」の時代に司馬遷に編纂された中国の歴史書である。はっきり言って勉強不足の僕はほとんど中国歴史を知らない(←後悔先に立たず!)。この時代、日本においてはまだ「弥生時代」なのだ。

さて北方謙三の『史記』は「武帝紀1」から始まる。若き武帝劉徹が、将軍衛青たちを見事に動かし、匈奴からの侵攻に挑みつつ、漢を発展させていくその英傑たちの物語である。
内容はオミットするが、大きくふとたつのことを感じた。
ひとつは北方の小説には2世紀の時を遡っても、まさに自分がその場にいる臨場感を強く感じることができるのだ。武帝の前でひざまづく瞬間、騎馬隊の馬に乗って突進する瞬間、すべての瞬間がまぶたに浮かぶような熱い文と流れるような文章が見事に展開されている。『史記』を読み始めて、これは歴史書でなく人間模様を描く小説だと理解する。会話のひとつひとつが重いものなのだ。その登場人物の数は多く、読んでいる際にも人物リストシートを片手に夢中に読んでいる自分がいた(笑)。
ふたつ目は、現代社会との接点を意図的に絡めているのが興味深い。武帝劉徹が漢を守るのではなく、攻めるその姿勢に魅力を感じる。ひとを動かすその巧みな言動や行動は、現代の世の中でも十分にその力を発揮できるものであろう。政権交代劇を演じた日本も、これからの大改革と大躍進を期待するものであるが、政界に武帝劉徹や将軍衛青のような逸材が存在するのかはこれからの活動を見守って行きたいところである。
『史記』第1巻「武帝紀1」を読んだだけでも、数々の刺激と興奮を味わう事ができる。しかも自分の創造力が飛躍的に広がっていってしまう。たぶん20巻近くは発刊されるのであろうが、これからの北方の情熱のこもった『史記』も楽しみである、、、ということでさっそく「第2巻」も手に入れた、、、、
最後に小説から、、、、、
「死ぬまでは生きている。生きているかぎり、方法はある」
「力はひとを支配するために使うものではない。夢を実現させるために使うものだ」
「利休にたずねよ」「火天の城」「マルクスの逆襲」と、「路上」「ねこまんま」という本をアマゾンで今注文中です。ずっと読もう読もうと思ってたけど、会社のそばの古本屋になかったので。休み明けに届く予定なので楽しみです。マルクスは最後かなあ。「火天の城」今映画放映中みたいですね。「火天の城」から読もうかな~。